その背後でささえているのは、(株)いろどり代表取締役の横石知二さん。
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その背後でささえているのは、(株)いろどり代表取締役の横石知二さん。
気ままに日々思いついたことや元気の出るエッセイを綴る。
「日本っていいなぁ」
番組の最後のナレーションで締めるのがお決まりと
なっているテレビ番組、といえば和風総本家ですね。
本物の職人の技術の技を茶の間のテレビで見られる数少ない貴重な番組。
「上質」と「美しさ」
そしてテーマは「日本」
このブログの目指すところでもあります。
『和風総本家』(毎週木曜よる9時)は、テレビ大阪制作のクイズバラエティ番組で、関東ではテレビ東京系列ほかで放送されている。
どこもかしこもお笑いタレントしか出演していない。
そういうテレビを見せられていることに、もう我慢の限界を超えた。
低俗番組と揶揄したくもなります。
もっと日本人の文化レベルを信頼しよう。
最近、気づいたのはこのテレビ東京、教養番組やドキュメンタリー番組など、
大人向けのいたって地味で良質な番組を制作しています。
「ガイアの夜明け」
「カンブリア宮殿」
「ソロモン流」
「美の巨人たち」
「開運!なんでも鑑定団」
「世界ナゼそこに?日本人 〜知られざる波瀾万丈伝〜」etc.
世間は、いまWBC ワールド・ベースボール・クラシックで盛り上がっている。
昨日 3月8日、WBC 2次ラウンド1組で3連覇を目指す侍ジャパンは、史上最強といわれる台湾と対戦し、延長の末4対3の死闘を制した。
野球の凄さ、醍醐味、日本野球の底力と意地を見た。
日本野球は、2度のWBC世界制覇で、その実力を実証してみせた。
そうです、ベースボールに勝ったのです。
西洋伝来のスポーツとしての「べースボール」を、明治以来日本独自に育みながら「野球」は発展した。
私は野球道と呼びたい。
先人たちの偉業と礎がなければ、今の野球の発展はなかったのではないだろうか。
あらためて先人の苦労に思いを馳せ感謝せずにはいられない。
そこでどうしても忘れられない人物がいる。
高校時代、野球部の監督に教えて貰った、飛田穂洲(とびた すいしゅう)です。
穂洲は、日本の学生野球の発展に多大な貢献をしたことから、学生野球の父と呼ばれている。戦前の早稲田大学野球部の監督としても知られている。
プロ野球がスタートする前、学生野球というアマチュア野球の長い歴史があったことを知らない人は多いことだろう。
野球は、高校野球をはじめ学生野球が原点、発祥なんです。
日本の野球は学生野球から発展した。
その中心を担ったのが正に東京六大学野球リーグ。
当時の日本野球の頂点が東京六大学野球に代表される学生野球だったのです。
長嶋茂雄が立教大学で活躍していた時代までは東京六大学野球のほうがプロ野球より観衆を集めていた。
早慶戦はもちろん観客は超満員。
早明戦、法立戦なども3,4万人は観客が入っていた。
1905年(明治38年)、すでに早稲田大学野球部はアメリカに遠征している。
103年前の1910年(明治43年)、当時の早稲田大学野球部は来日した米国シカゴ大学と交流戦も行っていたのだ。
もちろん、全国高校野球大会(旧.全国中等学校野球大会)も約100年の歴史がある。
東京六大学野球のその後の隆盛は、各地のアマチュア野球の形成と発展、そしてプロ野球の発足へと続く日本野球の発展に大きく貢献し、その礎を築いた。
プロ野球は、日本職業野球として1936年(昭和11年)に発足したのだ。
ずっと後のことである。
歴史を辿れば、戦前、終戦直後は、まだプロ野球は認知されていなかった。
東京六大学野球の人気が高く、それこそ花形スポーツだったのだ。
高校野球の名門校の選手が全国から六大学に集まった。
特に早稲田大学 は、
慶應義塾大学とともに日本の野球の発展を支えてきた、今日ではルーツ校的存在である。
戦前、数え切れないほどのスター選手を輩出し、後に野球の普及と球界の発展に貢献を果たした。
主なOBは次のとおり
(早稲田大学)
三原脩・橋戸信・河野安通志・押川清・飛田忠順(穂洲)・佐伯達夫・谷口五郎・田中勝雄・井口新次郎・藤本定義・小川正太郎・伊丹安広・森茂雄・伊達正男・中島治康・小島利男・若原正蔵・呉明捷・南村侑広
(慶応義塾大学)
水原茂・宮武三郎・桜井弥一郎・三宅大輔・小野三千麿・桐原眞二・腰本寿・山下実・牧野直隆
話を穂洲に戻そう
西洋伝来のスポーツであるベースボールを、穂洲は日本発祥の武道に通じる「野球道」と捉えた。
試合よりも練習に取り組む姿勢を重視した。
日本野球はパワーとスピードのベースボールではない。
一言でいえば緻密な野球のことだと思う。
「一球入魂」という名言を残したのも穂洲だ。
日本野球はスモール・ベースボール(Small Baseball)とも呼ばれる。
もともとアメリカの大リーグのドジャースの伝統的な戦略、ドジャース戦法とも呼ばれる。
パワー不足の日本人に効果的な戦法かも知れない。
日本ではV9時代、巨人 川上哲治監督が「本場・アメリカ仕込みの野球」としてドジャースの戦術を導入したことで知られる。
アマチュアの学生野球から発展した日本野球ならではだ。
今ではスモール・ベースボール、イコール日本野球。
それを効果的に活用しているのは日本であり、また完成度、レベルとも高いといえよう。
穂洲の母校水戸第一高校(旧・水戸中)には、胸像が建立されている。
そこには、詩人であるサトウハチローの詩碑「飛田穂洲先生を偲ぶ」(はじめの詩, まんなかの詩, おわりの詩)が置かれている。
サトウハチローが穂洲を讃えた詩碑をご紹介したい。
○ はじめの詩
ひとつのものを つらぬくことのすばらしさ
ひとつのものに 何から何まで打ちこむうつくしさ
ひとつのものを 大事にそだてるやさしさ きびしさ
ひとつのもの以外 ふりむかないガンコさにも われわれは笑顔と拍手をおくろう
ひとつのもの ただひとつのもの
ひたむきにそれと取り組んできた人
その人にわたしはいままでしたことのない おじぎをする
バルト海の小国エストニアという国をご存じだろうか?
大関 把瑠都(バルト)の出身国です。
ヨーロッパ北東部の共和国。ラトビア・リトアニアとともにバルト三国の一つ。まだまだ日本では馴染みが薄いですね。
昨夜、NHK BSで放送されたBS1スポーツドキュメンタリー「夢は把瑠都~力士めざすエストニアの子どもたち」(再放送)を視聴した。久々に良質の番組を視させてもらった。
把瑠都の日本での活躍で、地元では第二の把瑠都を目指して相撲の稽古に励む若者が増加しているという。
彼らの目に日本の相撲はどう映っているのか。
エストニアでは、今、第2、第3の把瑠都を目指す子供達が増加している。日本でいえば小学生、中学生の男女といえばいいだろうか。
そうした子供達に密着し、背景にあるエストニア社会の現実と、若者の目に映る日本の相撲の姿を浮き彫りにしていた。
子供達はヨーロッパ相撲の登竜門、ヨーロッパ大陸選手権での栄冠を手にするべく、稽古に励んでいた。会場のウクライナ?まで遠征、なんとバスで24時間だとか。
把瑠都が育った相撲道場に通う半数が施設の子供達だ。親がアルコール中毒で育児放棄をして身寄りがなくなった子供達など。
この把瑠都の相撲の恩師がラニクマン氏。
相撲に興味を持った理由が相撲は精神性を重視し実践している格闘技であるという点だった。
また子供たちのイタビューも興味深いものだった。それを拾ってみた。
・相撲は奥が深い。
・相撲で成長した。強くなった。
・相撲で未来を切り開いていきたい。
・感情に振り回されなくなった。
・小さいころは、いじめられっ子だった。相撲を始めて友達もできた。
・『礼に始まり礼で終わる』勝っても敗れても表に出さない。敗者を敬う心が養われた。
・日本に行って相撲取りになりたい。
しっかりとした口調で語っていたのには驚いた。
把瑠都が心の支えになり、また彼の成功が大きな影響を与えたに違いない。
ラニクマン氏の熱心な指導育成の中から大関把瑠都が生まれ、次の後継者達が育っている。
凱旋帰国した憧れの把瑠都の話に熱心に聴き入る子供達の眼差しは輝いていた。
ラニクマン氏の指導のすばらしさは、相撲の根本を教えそして体も鍛える。『心技体』の指導が徹底している点だ。
右側がラニクマン氏
相撲を通して人間を育てる。
生活苦に喘いでいた少年、今よりいい生活を求めて目標を持つエストニアの子供たち。
近い将来、柔道のように日本を追い越して行く日も、そう遠くないだろう?
日頃、合気道、空手、柔道、古武道など、日本の伝統的な武道を尊敬している私にとっては、相撲の精神の素晴らしさに普遍的なものを感じた。
相撲の原点を改めて知るいい機会だった。
我々日本人がまた大切なモノを忘つつあるのではないだろうか?と考えさせられた。
ラニクマン氏に相撲のすばらしさを伝えた、相撲の国際的な普及を図る国際相撲連盟の方々にも敬意を表したい。